kanata_note’s blog

おぼえがきです

女が男の歌をうたう

合わせた鏡。フラクタルとリフレクションの果てのない通路。

一対の男と女が互いの映し鏡になる。

あなたはわたし。わたしはあなた。

ひとりの人間の中にも男と女がいる。

一方に偏り、傾き、

一方は重みに沈み、一方は宙に浮きあがる。

音楽を注ぎ込んだ時、

折り合って生まれるラインに声が流れていく。

女が男の歌をうたう。

男の心を女がうたう。

女の声でうたう歌の中で男は女を思っている。

男の歌の中に男が思う女がいる。

その女は

NinaとTurandot

映している

荒野にこだまするカンタータ

氷の沈黙を溶かす太陽の光

春の夜の月

歌の中に

 

 

 

 

 

上がったり下がったり

試験を落としちゃった。

がっかり。

1月7日の試験で受けた2教科、おととい結果発表で一個落ちてました。

2月の試験申込は終わってるので次回は3月。発表は4月。また落ちたら在籍延長。先の道のりが一気に長くなった。

これが受かってたら全科目コンプリートで修了だったんだけどな。

そしたらさぞスカッとしただろうな。と思う。

この「試験に合格してスカッとする」という快感が猛烈。

脳内快楽物質の働き、あると思います。

よくは知らないけど。

 

レポートはテキスト読んで参考文献も読んで2000文字こねくり倒して必死で作成して提出した一時はやり遂げた達成感があるけど、たちまちレポートが合格で通るか再提出になるかが気になる。レポートの合否通知がいつ来るかは教科によって違うから、いつ来るともしれないメールを今か今かと待ちわび、来たら来たで、

「あ、開けるのが、怖い。。。」

とか言って。意を決して開けてみて合格の場合「パーーーーーーーン!!!」て、なんかが弾けて脳内花畑。

今くるよ師匠の「どやさ!」ていうか。

「オホホホ!オーッホッホッホッホッ!ワタクシを誰だ、とお思いになっていらしたの?」マリー・アントワネット…?

あるいは安土城を築城した頃の織田信長っていうか、ナポレオンていうか、秦の始皇帝ていうか…。

「誇り高さの極」がやってくる。

講評で褒められたりしたら、その褒めてる部分を舐めるように読む、何回も何回も繰り返し読む。

そして再提出を命じられた場合はしゅーん。と萎んで冷静に粛々とやり直すんだけど。

試験の場合はまたこれに点数がつくから、いい点取れた時の快感は凄まじい。点数低くても、ギリギリ合格だったら、すくい上げてもらった感が神に愛されてる感となって幸運を得た快さに浸り酔いしれる。

報酬系の中毒になりそうな緊張興奮快感と消沈の上がったり下がったりが激しい。

試験のシステムの高得点ゲットして気持ちよくなりたい。というゲーム的な面、味わいました。

試験に追われてる状況って内面に嵐を抱えてるみたいなことなのかも。受験の子どもたち。。。

私の司書資格取得の取り組みなんかは、自分がどれだけ上がったり下がったり激しく振り回されてても、自分以外の誰にも関係ないしなぁ。ともつくづく思いました。

今後の仕事上、資格があったら有利なこともあるかもしれないなぁ。くらいで何処かから要請されてる訳でもないので。

今回、1/7日の試験で全部キメないと年度内取得無理っぽいと11月に気付いて、それとちょっと慣れてきたのもあって、合格ゲット意識優先で短期間で詰め込んで勉強が荒かった。特に最後の2教科。

やっぱり、試験で問われる課題に対して論理的に堂々と述べるに足る十分な言葉を養いきれてなかった。

言葉を養うことが目的なんだし。

荒く飛ばしたところを拾う時間をちゃんともらえたんだなぁ。っていう気がします。

スカッとして終わるより良かった。きっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

弱い56の司書資格

手帳にはわたしが自分に約束したイベントが書き込まれている。

毎月「レポート締切」「試験申込」「試験日」などなどと書き付けている強めの筆圧に「絶対に忘れないで!」という、自分から自分への脅迫的な気合いが立ち昇る。

2023年4月、いろいろあってわたしは司書の資格をとろうと念願を立て、大学通信課程の手続きをし、取り組み始めた。年度内の取得を目指して。11教科+スクーリング2教科。

(テキストを読んで、レポートを書いて、試験を受ける。合格する。)✕11回+(対面授業3日)✕2回。

そのシステムとか、難易度とか、内容とかを事前に確認することほぼないまま「やってみんと分からへんしな。」と飛び込んだら、そもそもの前提として「計画性」が最重要だったという。。。

どういう順番でどうやって各科目の学習を進めていくか年間のスケジュールに合わせて全部自分で決めなくてはならない。

学習計画が肝。ってことをテキストが届いてから知る。。。

GWはネットで先輩たちの助言を検索しまくって見様見真似で計画を立てる(←優秀な人は入学前にやっている)だけで終わった。

そうして自分が登ろうとしている山の険しさを実感。ドサッと届いたテキストは商業的サービス精神の欠片もない簡素な製本。「学問」の「実物」という感じ。「勉強」ただそれだけ。

「飾りじゃないのよ、っていう感じ。」とか、「ガチの鬼だったんですね。。。」とかの感想も寄せ付けない高潔さ、みたいな。

そして年間のスケジュールは一切妥協の余地なく厳格に構築されてる。複雑で精密、美しいとも言える堅牢性。

構造の柱は「締切絶対厳守」。

冷や汗の元凶それは「期日管理の不安」だった。

レポートの提出日とか〜試験日とか〜忘れそう〜。あっ!と思ったとき、もう終わってたっ!ていうのが夢に出てきそう〜。あっ!忘れてた!っていう瞬間のビクってなる感覚が今直ちにリアルに体感できるくらい慣れ親しんでるし、すごいしょっちゅう普通にあるし。うわ〜。それで在籍延長することになるとか、ほんとにイヤ〜。

詰めの甘さと早とちりと勘違いと物忘れで日常の大半を自分がやった失敗の尻拭いに追われているわたしにとって、己の粗雑さに自分自身が追い詰められることの自覚はあったけど、司書の資格を取ろうとするときにもまた、己のそういう弱点がリスクとして剥き出しになろうとは。

齢56にして勉学に志を立てたものの、たちまち不安感に全身蝕まれる。弱い。弱すぎる56才。

弱い56の司書資格取得の道。その始まりは己の弱さとの対面。濃密に自分と向き合う時間の始まりだった。

大きな新月

それはとても大きな新月だった。

わたしが使っている手帳は満月◯、新月●、半分ずつ黒白の丸が上弦の月下弦の月というふうに月の満ち欠けの印付きなのだが、ふと見たときに、今月のページ、1月11日が新月だった。

わたしの流れはどんどん満ちていく感じ。

とその頃、思ってたんだけど逆だった。

どんどんと影に吸い込まれていってたんだ。そうか。そうだったのか。 

わたしの意識は1月13日と14日のKing Gnu "The greatest unknown tour live@大阪京セラドーム"を、己のエモーション面のピーク点に掲げていて、その輝かしい舞台を見る日のことを、この半年間の日々の積み重ねの決着をつける目的地のようなつもりで捉えていた。

それで、なんとなく、年が明けてから過ごす1日1日は終点に向けて埋めていく、満ちていく、そんな感覚だったんだけれども。

天空では月は逆にその姿を細めていっていたのか。

Liveの日の目前に新月があったんだ。

月の呼吸はそこで吐き切られる。新月の真空に達したら、時間が新しくスタートする。

Liveはリセットしたての、生まれたての、新しい天空のもとで行われる。いったん、ゼロになってから。。。

手帳の新月●印を見て浮かんだその考えは、わたしを軽くした。

この半年、ていうか、2023年の1年間は濃い日々の連なりで、例えて言えば、バラバラな素材の集積が絶妙なバランスで辛うじて構造を保っている不思議な建造物(ハウルの城的な)を甲羅に乗せて歩んでいた亀がわたしです。みたいな。

なんか滅茶重いし不安定やし緊張感半端ないし、ゆっくりしか進めへんし、亀の視界て低いし、前もよく見えへんし。。。どないなん?これ?!みたいな。

1月11日が新月だということは、ここでその荷物を全部降ろして構わない。ということだった。わたしには、そう感じる新月●だったのだ。やることはやったし。

そう。もうほんとうに。

「人事を尽くしきって今 天命を待つだけだって」"Stardom/king gnu/常田大希作詞"

っていう状況にたどり着いてたし。

影に吸い込まれていってくれ。もう、それで構わない。と。

実際、Live2daysは、なんていうか、波動が、軽い気がしたんだ。物事が重みなく軽く進んでいった。ホテルでとても高いところからベイエリアの夜景をずーっとずーっと眺めていて、朝も、その景色をずーっとずーっと眺めていたんだけど。

パジャマのまま、熱い飲み物をすすりながら、携帯スピーカーでKing Gnu聴きながら。その時には、もう、重たいものはなくなってた。

1月11日の新月は、見えないけど、大きかったんだと思う。そこで起きた転換はすごく大きかったから。

 

 

 

 

 

 

 

 

Root to Roots Work

2022年7月25日 マヤ暦の"時間を外した日"  オーラソーマのワークで家系図を作った、その時の感想が出てきたので、覚書きとしてここに載せておきます。

* * * * * * *

糸掛け曼荼羅を作った時のことが被る。

数字、数字で作っていく仕事を進めると色の模様が出来てきて。

紙の上に出来たその模様は、一人ひとりのパーソナリティ。

関係で繋がっているその網目に、流れを見つける、その見つけている自分の視座。

神様が私たちを見る目線寄りに少し高い場所から俯瞰したら見える模様。

天から降りるロープに吊るされて自分を見る、網目の中にいる自分を。

自分の数字と自分の色が表しているイメージがこれまでの記憶に結びつくのを見る。

小さかった自分が大人になるまで。繋がって関係性を広げてきたことを見る。

 

その模様で見れば、誰もが等しい存在。落ちる目の鱗。 

自分の内側から見て影響力の強い存在を大きく感じていた。存在の遠近感。近い人を大きく、遠い人を小さく。

ところが、図で俯瞰して見る一人ひとりは同量の質量で、個別の数字と色で内包した豊かさを瞬かせているだけ。

遠くに同じ質を持っている人がいる。

その響きに安堵する。

繋がり流れ受取り伝え求め与えて。

フラクタルのパターンが無限に広がる。

 

赤ちゃんが胎内記憶を持ってて「ママを選んで生まれてきたんだよ」と言うって話があって、母親にとったらその話は最上級のロマンスで王冠で手放したくない話なんだけど、でも「ホンマに?」と思うのは、「ママだけ見て決めて来たって、大丈夫かな?その〜家の事情だとか人間関係だとか背負わざるを得ない運命ってあるのに確認しないで来た訳?」という疑問が拭えず。

なので胎内記憶はロマンスとして大事に置いといて、別腹で、この繋がり流れる網目のネットが受け止めるその場所に吸い寄せられるように、それとも、赤ちゃん自身がそのポイントを目指してして、

落ちてくる、そんなイメージが湧いたのだ。

 

居るべき場所に導かれた、という信頼心は自分がいる場所を天国にする。

間違いなく自分でここを選んだという確信は、大いなる安心感。

網目のネットは大いなる安心感そのもの。

大いなる安心感の網目の器の中で、葛藤し、苦しみと向き合い、喜怒哀楽を味わって生を全うする。

そうして生を終えた人の、数字と色の瞬き、この世にいなくなっても残る繋がりの感触。

 

こどもの私が心の奥に沈めていた親戚を怖がった気持ち。それは、比較されることへのこわばり。

似ているから違いが目立つ。違いに後ろめたさの色がつく。

こわばりと劣等感と罪悪感の震え。

恐れに感電してしまったショックに癒しを施していく。数字と色の宝石が働いてくれるに違いない。

 

地平線から見た遠近感、自分を異質に固定した視界を、俯瞰に変えれば、誰もが等しく個別で、一人ひとりが宝石のようだ。それぞれが異質で、異質さが美なのだ。

私の中の七人の侍

今年のお正月に新しいイヤホンを買った。MP3ウォークマンで聴く音が明らかに良くなって、嬉しい。

取り繕ってはいるが正直いつも疲れているしなにもかもが面倒くさくて本当は何もしたくないただ寝転がっていたい大雑把破れかぶれやっつけ人間の私だ。イヤホンの違いが分かるのか?格付上等人間じゃないよね、音が鳴ってるのが大体が分かれば良いでしょう。

いやいやだが実際ちょっと良いイヤホンは今までと比べて細かい音まで微細。音に輪郭があるのが感じられる。音の粒子の細かさがクリアーなのが物凄く気持ちが良い。

頭の中までが澄んで綺麗になる気がする。だいたい通勤の電車で使うんだけど差し込んでくる朝日の眩さが音とリンクして音が輝いてんのか光が奏でられてんのか、みたいな現実離れした美しい現象に恍惚!

 

それが毎日。

 

費用対効果が高い。

 

今日それだけ素晴らしい音の味わいを楽しんで、また次の日も、次の日も、劣化することなく美しさは再生され、身体に滲み重なっていく喜び。綺麗なアイテムを装備した自分の、アップしたスペックがもたらす恵み。その豊かさよ。

 

友人が基礎化粧品のグレードを自分のために上げてお手入れしてあげたらすごく気持ちが前向きになった。と言ってたことがあって、それと同じ現象じゃないかな。という気がする。

 

じゃあ何でもグレードを上げればええのか。っていうと、そうでもなくて、私とイヤホンの物語には「葛藤を経た」重みが、あった。イヤホンの格付けと自分の内面での自分格付け、その葛藤は案外深い。

 

エディオンのイヤホン売り場で品物はだいたいスリーランクに分かれていた。

松5000円 竹2000円  梅1000円

本当はその上に一万円超え機種もあったけど選択肢外だしケーブルタイプしか欲しくない。

だって当初の想定ではイヤホンの買い物は1000円の梅ランク一択。

100均のイヤホンでも可と思っていた。

だって元々ウォークマンの付属品イヤホンに不足を感じることなく10年間使ってきたのがこの数日見当たらず、聴きたいときに音楽を聴けないイライラが高じてわざわざ買いに来たけど絶対自分のどれかのバッグかコートのポケットのどっかにはあるはずだし、ポロッと「こんなとこから?」みたいなとこから出てくるまでの間に合わせなんだから。と。

ほんとは要らないものだ。って念を押していた。

しかしその売り場に陳列されてる松ランク5000円イヤホンの佇まいになにか引っかかる。

「5倍ランクのイヤホンで俺の音楽を聴いてみませんか?」

常田さんだった。

この2年、King Gnuにどっぷりどっぷり浸かり込んだあまりに私の中に根付いて育ったKing Gnu愛が光となって私の心の闇を照らし、闇に溶けていた私の心の中の常田さんの存在を浮かび上がらせ、そして言葉を発するまでになったのだ。

私の心の中の常田さんはバガボンド宮本武蔵の姿をした音楽侍で、超渋い&チャーミングな低い声で私を見つめて言う。「イヤホン、いい方にしてもらったらいい音で聴こえるっすよ」

きゃ〜〜〜〜〜っカッコいい!

想像の存在とはいえ、常田音楽侍カッコいい!

そして常田音楽侍の言わんとする事、めちゃわかる。どんだけこだわりまくって作られた音なんかっていうことファンだからわかってる。そりゃそうなの。良いイヤホンで聴きたい音楽なの。常田さんの音楽は!

でも、、、1000円 VS 5000円。。。

この抵抗感は何?罪悪感は何?

 

エディオンのイヤホン売り場に佇む一人の中高年女性は心の中の葛藤を見つめた。

 

心のなかに必死に抵抗する男がいる。

「もったいないでござる!お主のような音痴のダサ女が5000円もするイヤホンを使うなど高望みもいいところでござる!生意気でござる!身の程をわきまえぬ我儘な振る舞いとあらば拙者お主を成敗いたす。もはや切腹なされよ!」逆上してガンガンに頭煮沸している私の中のクソうんこ侍。

 

私がなにか素敵なものに手を伸ばそうとすると内面の抵抗勢力として罪悪感を駆り立ててくる影。キャラ立てして発言を聞いてみると大抵このクソうんこ侍が「生意気な女が憎い」と抜かしている。

ほんとうにうんこ。

このうんこ侍に抑圧されてきた私の人生。深く深く芯まで貫いて刺さった痛み苦しみ。罪悪感や怒りや被害者意識が渦巻くとき、その葛藤を避けようとして、そもそも自分の第一希望を望みから外して望まない。とか、存在感を消す。とか、関係者枠外にいる。とかいうことを無意識にしがちであった。

お前なんか100均のイヤホンで充分!

自分の中に自分を虐げる存在がいる。自分を抑圧してくる意識。うんこみたいな意識。

でも私は変わった。

以前ならそのうんこ侍に感情をぶん回されていたところが揺らがなくなった。

そういうクソうんこ侍が自分の中にいる事情もやむにやまれずあるのだ。と理解ができると、クソうんこ侍が哀しく哀れに見えてくる。

クソうんこ侍が成仏できるよう癒やしてやれるのは、クソうんこ侍の持ち主である自分しかいない。

昔、私の中で実の父とうんこ侍は被っていた。私の中でうんこ侍が切腹成敗切腹成敗血相変えて大騒ぎする根本には5000円のイヤホン買ったら父にしょーもないもんに高い金使いやがって。と怒られることへの怖れがあった。

 

今では、私にもいろいろあり、実の父にもいろいろあり、二者同様に内面のこだわりが抜けて、父が私に怒りで攻撃してくるということが一切無くなった。

父が私を怒らなくなった。という現実を受け入れるには時間と努力がいった。父を悪者にしておきたかった。ツミヲキセておきたかった。けど、本当は違うことを受け入れたら私の内面の対立構造は崩れて消えた。

5000円のイヤホン買うのを渋っているうんこ侍は、現実の父とは全く別の存在だった。現実の父はそんなことで怒らないし。

 

うんこ侍が喚き散らしていることは私の内面に残されたトラウマの残響でしかない。

空っぽの風みたいなうんこ侍の罵倒なんて全く怖くもなんともない。

5000円のイヤホンを買ったところで私を怒ってくる人なんか誰一人現実にはいない。

うんこ侍を作ったのは自分だった。というか、うんこ侍は自分だった。と納得した私は楽になった。

 

さて、それでもまだ渋っているうんこ侍をどうするか。う〜ん。だってねぇ。

1000円2000円5000円とある中で、5000円てやっぱり勇気いるんだけど。。。

 

「そんなこと言うて、お前きのうブックオフで読まへん中古本に6000円使うてたやないか」

町田康パンク本当のことしか言わない侍だ!

実は私は中2の9月に京大西部講堂でPUNKS NOT DIE というライブに友達と行って、そのアンダーグラウンドインディペンデント世界に雷に打たれたように衝撃を受け一切の価値観の頂点にパンク最上最高と刷り込まれ以降40年間信仰と言っても良いかもしれないパンクスピリットヘの憧れが芯にあって、これはパンクか、それ以外か。と万事において無意識のうちに選り分けを行う世界観で生きてきた。

で、町田町蔵町田康のことはパンクの生き様に取り組む本当のことを追求する人として尊敬している。

 

そして私の心の中の町蔵パンク侍が本当のことを言ってきた。

そうだ。町蔵が言う通りや。ブックオフ積読本に6000円使うことには抵抗感ゼロって何なん。。。

 

本は知で、音楽は官能で、知は偉いけど官能は許しまへん。てこと?

音楽が大好きなのに楽器できない歌も下手くそ音痴コンプレックス。全然見かけがパンクでもロックでもないダサ女コンプレックス?

 

そうやな〜。何かしら音楽に対する引け目。コンプレックスがあるんやんな〜。

 

エディオンのイヤホン売り場で内的対話が続く。

 

なんとなく、私の中の七人の侍というタイトルにしてしまったし、自分の中の侍を一個一個検討すればするほど、辛いものに肉薄してしまうし、人に公開するようなことじゃないことを辛気臭く長々しい文章にしていることの異常さもしんどいし、もうそろそろ締めくくりたいんだけど。

 

とそこにスネ夫

「金はある!だってパパがお年玉くれたもん!」

 

そうなのである。実の父といい、夫といい、身近な男性が私に親切になった。

わたしは夫からお正月のお小遣いを貰っていたのだ。

 

こうなったら5000円イヤホンに気持ちは傾く。

え〜〜〜〜!ホンマに?

だって1000円で買うつもりで来たんやけど〜?

粘るうんこ侍。

 

そこにスパダリ侍が降臨。

それをキアヌ・リーブスとしよう。

男性性と女性性について勉強してみたとき、自分の中に最高の男性性を具体的に創造するならその姿は誰に該当するだろう?何日も考えてみた。う〜ん。それは。。。キアヌ・リーブスなんじゃないかな?

私が意識の中で創造したこのスーパーダーリンはこの世で一番変わることのない愛を私にくれるし、3度の飯よりあなたがいいのだし、あなたとこのままオサラバするよか死ぬのがいい(藤井風くん存在が宝物侍)という。

自分の中の究極理想の男性性としてこのスパダリが私を溺愛。というイメージを持ってみる。自動的にニヤける。

 

で、スパダリ侍は100%肯定しかしないし、5000円のイヤホンをする私をI love youだということであった。

I love you sweet honey, I know you really loves music.

 

だよねえ。

だよねえ。

じゃあ、分かった!

買います。

5000円のイヤホン、買います。

 

「あると思います!」

背中を押してくれたのは、昔エロ詩吟で有名になった天津木村侍だった。

あると思います侍、いい仕事するわぁ。

 

それでエディオンから実家に帰って実家のこたつでSONYのオシャレな箱からイヤホンを出して高級感を味わった。

付属品のイヤホンがそろばんの玉みたいだとしたら、5000円の方は立体的で、昔、小さなヒョウタンの中を除いたら中に仏さんの細密画が入ってる根付みたいなものがあったけど、あれに似ていて、形状もヒョウタンぽいし、中に何やら有り難いっぽいミクロコスモスを内包してそうなところも共通。

そして今までいちいちコードを解くのに一苦労してたけど(Bluetoothじゃない派)、今度のはコードがシリコンぽくてスルッとサラッと解けるし、右のイヤホンには赤でRの表示があってどっちが右かすぐ分かる。

至れり尽くせり!

そして、ウォークマンに差して、

King GnuのStardomを聴きました。

最高!

 

そしたら父がやってきて

「それなんやぁ?テレビの音が大きい聞こえるようになるもんか?」と言いました。

「う〜〜〜〜〜〜ん。近いと言えなくもない。ていうか、これイヤホンやし。イヤホン知ってるやろ?」

年寄りがなんかちょっと違うことを言ったり、普段の不便が透けて見えるあったらいいなを言ったりするのが大好物の私は、父がいい感じに年寄り発言するのを平和な気持ちで聞いた。

うんこ侍成仏。